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【書評】サビールの祈り〜パレスチナ解放の神学〜

今回は書評にチャレンジ。

 

欧米のクリスチャンに限らず、日本にも、聖書を振りかざして盲信的なイスラエル支持を公然と唱え、パレスチナへの人道的罪を軽視する半ばシオニストのようなクリスチャンが一定数存在している。彼らは、報道でイスラエルパレスチナに対する行動が大袈裟に報じられていると主張し、パレスチナを、善良なるイスラエルを困らせているただのテロリストのように考えている。そんな彼等のようなキリスト教シオニストたちの言説を粉砕(?)できそうな本を見つけた。

サビールの祈り: パレスチナ解放の神学

サビールの祈り: パレスチナ解放の神学

 

あらかじめ予告しておくが本書には、聖書にある程度精通していないと、ところどころ理解できない箇所があると思われる。とはいえ、聖書読んだことない人でも、辞書代わりと言っては何だが傍にあるだけでも違うかもしれない。ということで、拙い文章力で恐縮だがレポートしてみる。

 

 

 

 

 

襲い掛かるナクバ(大惨事)

 

 パレスチナと言えば、多くの人々はムスリムが圧倒的多数を占めていると思うだろう。実はクリスチャンも一定数存在しており、古くからパレスチナムスリムたちと共存してきた。

 

 著者のナイム・アティーク司祭(聖公会)もパレスチナ人クリスチャンだ。彼がまだ幼かった1948年5月、イスラエル建国の際に軍によって住んでいた街を追われて、家族でナザレに住み着いた経験を持つ。クリスチャンが新約聖書と同様に御言葉と信じている旧約聖書の聖句を振りかざしたユダヤ人入植者の人々によって、パレスチナに「ナクバ(大惨事)」がもたらされた。シオニストによる軍事占領と故郷からの追放である。

 

 彼は三重のナクバがパレスチナに襲い掛かったと述べている。貧困と難民状態に陥れられた人間に対するナクバ、アイデンティティのナクバ、そして信仰のナクバである。当時のユダヤ人入植者やシオニストたちがパレスチナの文化と歴史、記憶を消去しようとしたために、パレスチナ人のアイデンティティを脅かし、そして結果的にそれが信仰の大惨事に繋がったのだ。

 

 

 本書の最大のテーマは「よそ者を憎悪し、他者を軽蔑し、自分たちの人種・宗教・立場の優越性、例外性の盲信に起因する現代イスラエルの不正義への告発と、共存への歩み寄り」である。著者は、キリストの説いた思想によって旧約聖書を捉え直す事を試みる。

 

旧約聖書の捉え直し

 

 私個人としては、本書におけるこのテーマが一番ワクワクした。と同時に、やはり戸惑いを感じずにはいられなかった。というのも、私自身旧約聖書も、新約聖書と同様、どの箇所も、たとえ民族浄化を示唆しているような箇所であれ、神の霊感によって書かれた、信仰と生活との誤りなき規範であると、教会でもKGKでも教えられてきたし、そう信じていたからである。

(とはいえ一度、信仰から離れた経験があるから完全に信じているかといえば嘘になるかもしれない)

パレスチナ解放の神学においては、キリストという解釈基準、あるいは愛という解釈基準に合致せず、道徳的にも神学的にも攻撃的である聖書テキストは何の権威も持ちません。悲劇的なことに、そうしたテキストの中には、キリスト者が神の名において、奴隷制度や女性差別パレスチナ人に対する民族浄化、およびその他多くの罪や悪を正当化するために用いてきたものもあるのです。

(第6章「旧約聖書における宗教思想の発展」より)

 

 

指摘しなければならないのは、イエスはカナンの先住民の追放を正当化する民数記から一度も引用しなかったし、民族浄化を讃えるヨシュア記や士師記からも引用しなかったということです。エス旧約聖書を用いる際に極めて注意して選ばれました。

(第6章)

 

 そして著者は、こう問うている。

私たちが愛を解釈基準として用いる時、次のように問いかけます。すべての人々を平等に愛する愛の神が、その土地に住む先住民の民族浄化を命じるだろうかと。

(第6章)

 

 さらに告発する。

女性や子供が冷酷に殺戮されるときに神が喜ばれるのでしょうか。神は本当に、他の民族が食べ物や飲み物を差し出さなかったからといって、その民族に対する怨恨を永久に抱くように人々に求められるでしょうか。そのようなテキストを人々が神の言葉であると信じ、神の名において出かけ、他の民族を抑圧し殺戮するとき、彼らは神と仲間の人間に対して罪を犯しているのです。

(中略)これは報復に飢えた者の像に似せて造られた神です。

(第6章)

 

 著者の立場は、どちらかといえば自由主義神学に近い立場なのかもしれない。福音派の人々にとってはかなり抵抗を感じるであろうことが本書には網羅されている。以上の引用に挙げた言説を理由として旧約聖書のなかに礼拝で朗読すべきでない箇所が複数ある」と著者は指摘しているからである。

 

 だが旧約聖書の内容は、必ずしも全体を通して一貫していないことは、誰の目にも明らかだ。「いやいや、一貫していないように見えるかもしれないけど旧新約聖書66巻は全体を通し一貫しているのだ」みたいな事を言っている人を見かけたら、その人は嘘をついているか若しくは、聖書をちゃんと読み込んでおらずに他人の受け売りをそのまま信じてしまってる可哀想な人だと思った方がいいかもしれない。

 

 実際、モーセ五書ヨシュア記、士師記、サムエル記などに散見される、民族浄化や殺戮を厭わない排他的神学が預言者エゼキエルによって批判され(エゼキエル書47章21-23節)さらに預言者ホセア、ヨナによって旧約聖書における神学は、その批判の頂点に達していると著者は述べている。

 

土地は結局誰のものなのか?

 

 イスラエル建国以前から今現在に至るまでシオニストたちはパレスチナの土地が自分たちのものであることを旧約聖書によって主張している。だが、著者は「土地は結局誰のものなのか」と問いかけている。

  旧約聖書レビ記(モーセ五書のうちの一つ)には以下の記述がある。

土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたし(神)のものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在するものにすぎない。

(レビ記25章23節 新共同訳)

 

 これを受けて著者はシオニズムに挑戦する。

土地が神のものであり、すべての民が寄留者であり滞在するものに過ぎないのであれば、神が土地の土着の人々の追放と絶滅を命じるなどということはあり得ません。そのような民族浄化を呼びかけたのは、神についての限られた知識と理解しか持たなかったモーセや人間たちなのです。

(第6章)

 

 

神とは誰か

 

 それでは、私たちキリスト者が信じている神とは誰なのか、どういう性質を持った神なのか。 

 旧約聖書の神と新約聖書の神が別物に感じてしまうと言うクリスチャンは少なからずいるのではないだろうか。そんなあなたにも読んで欲しいのが本書である。

 

 旧約聖書には、先述したように、自分(神)に従わなかった異民族を殺戮する命令を下している神が描かれている。かと思うと、イスラエルの民自身が神に背いた時に、憐れみの故に滅ぼすのを思いとどまった神、バビロン捕囚後に描かれたような、異民族をも真理と正義に基づき保護しようとする神も描かれいる(エゼキエル書47:22等)。

 一体どれが本当の神なのか。

 

 ここに挙げられた性質全てが、神の持つ性質だと言う人もいるだろう。著者は、そうとは言っていなかった。

神が冷酷で暴力的、排他的な神から進化して慈悲深い、優しい、包括的な神になったということではありません。そうではなく、大きな変革を遂げたのは人間の、神に対する理解です。

(第6章)

 

 異民族に対する民族浄化や絶滅といったことは、「時代遅れになった宗教的部族文化の構成部分」だったと指摘する著者。しかしながら彼は「私たちは今でもそのような思想を脱ぎ捨てることを拒み、時代遅れの排他的・部族的神学にしがみつき、その神学が極端な形では他者に対する暴力的な行動と冷酷な犯罪となって現れるのだ」と告発している。

 

 そして神とは誰か、どのような方なのかと問う我々に著者はこう答えている。

神の性質は一度として変化したことはありません。永遠から永遠へ、神は愛の神であったし、今もそうであり、これからもそうあり続けます。神は決して戦争と暴力の神から平和と慈しみの神に発展したわけではありません。(中略)一人の神が現実であるという真理に導かれるまで多くの神々を作り出し礼拝してきたのは私たちなのです。(第7章「キリストこそが鍵」より)

 

解放者であり、正義と平和、そして和解をもたらすキリスト

 

 新約聖書にも、ユダヤ人以外にローマ人、サマリア人などの異民族が登場する。著者は、彼らに対するイエスの態度に注目している。イエスはその民族的・人種的背景にかかわりなく、人々の病を癒した。その代表格のたとえ話が「善きサマリア人」の物語だろう。強盗に襲われて瀕死の状態で倒れていたあるユダヤ人を助けたのは、ユダヤ人でも聖職者でもなく、全く関係のない通りすがりの、ユダヤ人と仲が悪かった外国人(サマリア人)の旅人であった、というお話だ。

 

エスはその誕生の時から、人類の苦悩と無縁ではありませんでした。イエスは誕生直後、無垢の幼子の虐殺から逃れ、エジプトで難民になることを余儀なくされました。イエスは当時の力あるものに迫害され、最終的には不当にも死刑の判決を受け、十字架につけられました。イエスは周縁に追いやられた人々に特別に心を寄せていました。彼の使命によって、イエスは盲目の人、重い皮膚病の人、貧しい人、女性、追放された人のところに赴きました。(はじめに)

 

 (著者は指摘していないが)もちろん、例外として、カナンの女に自分の娘を助けてくれるように懇願した時にイエスが言ったとされる「わたしはイスラエルの失われた羊のもとにしか遣わされていない」等の発言が福音書にはある。だがその後の女の答えに感心したイエスは、結果的にその娘の病気を癒したと記してある。人種や宗教的背景が違っていても、結果的には分け隔てしなかったのだと私は思っている。

 そして著者はこのキリストの姿勢、キリストの愛こそが我々双方(パレスチナイスラエル)を解放に導く鍵だと、本書で繰り返し語っている。

  

非暴力の提唱

 

 対峙しなければならない相手の土俵には乗らないという意味でも、武力行使による解決を明確に否定するのは、かなり効果的だと思われる。

 

パレスチナ人の中には、武力闘争によって影響力を獲得できると思った集団もありました。これは、不幸な武力行使と多くの無実な人々に苦難をもたらしました。イスラエルは優勢な軍事力によってこれらの戦闘に勝っただけでなく、パレスチナ人はテロリストであり何の権利もないのだと世界に信じ込まされることに成功しました。イスラエルは宣伝戦に勝ち、パレスチナの正義の大義は見えなくなってしまったのです。

(第8章「中心に置かれるべき正義」より)

 

非暴力闘争が効果を上げるには、何千人、何万人で行進することが必要です。(中略)…解放が実現するためには、一発の発砲もせず、また逃げて退くこともなく、この戦略が粘り強く実行されねばなりません。(中略)…私たちパレスチナ人自身が、政治的・宗教的指導者と共に、進んで自由を要求し、勝ちとろうとする時、自由が訪れるのです

(第8章)

 

著者が本書でも述べているように、パレスチナ人は自らの権利を獲得し、正義は国際法に沿って実現しなければならないが、同時に敵の破壊を求めることはあってはならず、いかなる報復も復讐も許してはならない。 著者の願いでもあり、またパレスチナ解放の神学の目指すゴールは、「パレスチナ人もイスラエル人も含め、この地のすべての人々が平和と安全のうちに共に暮らすことができる」世界である。

 

感想

 

 正直に言おう。本の感想を書くのは苦手だ。

 

 とは言いつつも、そんなに分厚い本ではなかったのにも関わらず、物凄く読み応えのある本だったと感じた。 

 

 私はクリスチャンになる前から今に至るまで、政治信条としては反シオニストのつもりだ。弱者の立場に立ちたいとずっと願ってきた。当然、願った通りの人生を歩めていないと気づかされる事もとても多いが…

 

 少なくともどの宗教も、常に弱者の立場に立つべきであり、弱者の存在を無視するようなら、そんな宗教など無い方がいいのだ。著者のナイム・アティークも、欧米から来た宣教師たちや当時のあらゆる教派の既存の教会がパレスチナ人クリスチャンのアイデンティティの危機と救済について無関心だった事を告発している。教会が必ずしも弱者に目を向けるとは限らないケースは万国共通だと思わされた。

 

 とにかく、彼らの信仰とアイデンティティの真の回復と、純粋に平和を希求する一キリスト者の魂の込められた著作である。旧約聖書新約聖書の神理解の違いに戸惑っている人にも何らかのヒントが隠されている本だと思う。