なよなよブログ

旅行と書評と音楽と、仮住まいの寄留者

🎄クリスマスに、つれづれと🎄

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[今年の夏訪れたオランダ・フローニンゲンルター派教会のステンドグラス ]

 

クリスマスおめでとうございます。

今年は、というかここ数年来、クリスマスから遠ざけられたような、疎外感を味わい続けて、苦しかった。私はクリスチャンなのでいわゆる世間的な、恋人がどうこうとかそういう問題ではなくて、単純に「皆でキリストのご降誕をお祝いしましょう」という雰囲気に参加できない感じがして苦しかった。

別に特定の誰かに故意に遠ざけられた訳ではない。色々な要因が重なって、私がそういう気持ちになってしまっただけなのだ。

 

教文館行って、本を見ていた。ヘンリ・ナウエンの「今日のパン、明日の糧」みたいな本があった。立ち読みしただけなので、はっきりとは覚えてないが、そこに教会についての短い記述があった。

それを読んで突然思い出した。母教会の牧師の昔の説教での出来事。その日は主の祈りがテーマだった。主の祈りの中に「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という一節がある。牧師は「この飽食の時代に、この一節を唱える意味は何か?」と問うた。ここまではまだ許せた(というかその当時は抵抗なく聞いていた。飽食の時代にだって飢えた人はいるというのに)。

その直後に牧師は言った。

牧師「…この中で日々の食事に困ってる人はいますか?」

会衆「(一同笑う)」

牧師「(しばしの沈黙)…まあ、手、挙げられませんよね、本当にもし困っていたら」

会衆「🤣🤣」

 

私は、聞き違いではないだろうかと、何年もずっと悩んでいた。誰にも言えなかった。まさか母教会の牧師が、こんな事を言ったなんて。私自身が一番信じたくなかった。もっとも、牧師氏は教会員のケアなどに露ほども興味のない人であるし、会話のキャッチボールすらままならない人ではあったから、最初から私はあまり仲良くなれなかったが。

牧師の事もそうだったが、何より牧師の発言に笑った会衆(必ずしも全員が笑ったわけでは無いのかもしれないが)、私は何か悪い夢でも見ているような気持ちだった。ジョークとして受け取った会衆の気が知れなかった。私は幻聴を聴いたのだろうかと、これまた何年も悩んだ。貧しい人を晒し者にしようとした牧師、それをジョークとして受け取って笑った会衆。「貧しい人々は幸いである」と言ったイエスはここにはいない。私はそう受け取ってしまった。私は愕然とした。

 

教会ってなんだろう、牧師ってなんだろう。ただの説教マシーンなんて要らない。私には必要ない。貧しさを笑い物にして、ジョークを飛ばし会衆のウケを狙おうとするその浅ましさ。本当に聖書を読んでいるのだろうか。少なくともあの教会には弱い人は存在してはいけないのだ。それを突きつけられたような気がして、私はそれ以降聖餐を受けていない(母教会では毎月第1週の日曜に聖餐をしている)。神様の家族と言いながら、家族の一員である人を排除しても平気なのだ。ダブルスタンダードも甚だしい。

 

洗礼を受けてクリスチャンとなった人が、よく挨拶で「未熟者ですので何卒ご指導よろしくお願いします」などと言うが、なぜ人間に指導してもらおうなどと思うのか。卑屈に振る舞って印象をよくしようと狙っているのか。そして実際、新しくクリスチャンになった人は、人間に指導「され過ぎて」傷つき、教会を去っていく。そこら辺を上手くかわしていける人は教会を自分の居場所にできる。

この人たちは大丈夫だろうか、教会で傷付かないだろうかと、洗礼式を見る度に私は心配しながらそこに座っている。この前の日曜も洗礼式があって私はそれを見ていたが、やはり心配な気持ちはそこにあった。私のようにならないで欲しい。そう願っている。

 

私は直接誰かに傷付けられたとか、そういうことは今のところない(とある人とトラブった事はあったけど)。でも家族が傷付いた。関わり過ぎたのだ。たまたま、人を傷つけても平気な人が何人かそこにいたのだ。他の教会にはいないのかもしれない。大きな教会は、色々な人がいるからそれだけ、大変な事も多いのかもしれない。小さい教会に行けばよかったのかもしれない。色々考えたが、もう手遅れだった。私は家族が信仰から離れていくのを尻目に、自身も一度は信仰を失い、また戻った。だけどもう以前の、何の疑いもなく神を、教会を、聖書を、信じていた私では無くなったことが、ただただ苦しくて。同世代の若いクリスチャン青年たちと賛美したり一緒に聖書読んだり分かち合ったりしたいのに、私が行ったところで、きっとアウェーなのではと思うと、悲しくて足がのばせられない。

 

それでも。

クリスマスは、この世のあらゆる、飢え渇いている弱者のためにこそあるのだ。キリストは当時の考えられうる限りの酷いコンディションで(宿屋に泊まらず、本来人間が宿を取らないはずの汚い馬小屋で、しかも飼い葉桶に寝かされて)この世に生を受けた、とよく言われる。私もそう信じたい。