なよなよブログ

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【感想】聴くドラマ聖書

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「ですから信仰は聞くことによって始まります。聞くことは、キリストの言葉を通して実現するのです」ローマ人への手紙 10:17 (新改訳)

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」ローマの信徒への手紙‬ ‭10:17‬ ‭(新共同訳‬‬)

 

 最近、「聴くドラマ聖書」なるアプリ(ベータ版)がリリースされた。ネットのクリスチャン界隈で話題になっていたが有料だと思っていた私は「気になるけどアプリには課金できない…」と大して食いつけなかった。ところがリリースから2日後に無料だと知り早速DL!

 

「聴くドラマ聖書」ホームページhttps://graceandmercy.or.jp/app/

 

 ホームページをくまなく見て、俳優のインタビュー動画までチェックしつつ音声データを試聴しながら私が一番気になったのは「これだけの豪華キャストを迎えて総力を上げて作った質の高い物がなぜ無料で配信できるのか。無料で提供できるだけの資金をどうやって集めたのか」だった。これに対する明確な答えは出ていない。だがどうもこれをリリースしたアメリカの財団の創設者が高い理想を持っていることだけは理解できた。

 誰かこの組織について説明して欲しいものだ、、、ギデオン協会的な組織なのだろうか。にしてもなぜ誰もこの事に疑問を持たないのだろうか。ネットを漁ってもこんな能天気な取材記事しか出てこなかった。

「時代は聴く聖書!?「日本G&M文化財団」の活動を取材してきた」https://wemmick3.com/graceandmercy/

 

うーむ🙄と思ってたら、アプリDLして次の日、案の定不穏なツイートを発見。

https://twitter.com/nannto_lhc_jp/status/1179752680379621378?s=21

 

 どういうことなのか、私は疎いのでもう少しリサーチしなければならないが、とはいえカルトの資金源でこういう事ができるのだとしたら、素晴らしいアプリなだけに複雑な気分だ。ただほど高い物はない、ということか。

 このアプリの背景や資金の流れについては他の方に任せたい。ここではわたしがこのアプリを利用して感じたことを書きたい。

 

 

《わたし個人のおすすめポイント》

 何しろ旧新約聖書66巻の膨大な音声データが入っているので、もちろん全部は聴けていない。創世記を12章まで読み、ヨシュア記1章、詩篇を少し、ルカの福音書1, 2章。ローマ人への手紙を少し聴いた、と言った具合だ。

 私は普段、新共同訳に慣れ親しんでいて新改訳は、昔KGKの人たちと聖書読んだ時に朗読をチラチラ聴いて以来。ほとんど触れてこなかった。だから少し違和感があったが、それを打ち消す感動が待っていた。

 

 ホームページを見ればわかるが、今回担当した俳優さんたちは聖書の登場人物の喜怒哀楽にそれぞれの表現の仕方で物凄く寄り添っていて、登場人物の言葉が本当に生き生きとわたしたちに伝わってくる。特に詩篇22のダビデのうめきに満ちた祈りには、涙なしには聴けない臨場感があった。ダビデ役を担当した俳優・鶴見辰吾さんの、胸が苦しくなるほどの熱演にわたしは大いに絶賛したい。失礼を承知で言わせてもらうが、彼がこんなに素晴らしい俳優だとは知らなかった。

 

 そしてマリアの賛歌。すごく心に染み渡って素晴らしかった。高すぎず低すぎず、とは言っても若い女性らしい雰囲気が伺える声で、少なくとも私の心に優しく響いた。マリアの思慮深さがよく演じられていた印象だった。

 

 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」このローマ10:17の聖句、私は洗礼を受けた6年ほど前あたりからよく知っている言葉だったが、本当の意味で、よく分かっていなかったなと思わされた。「黙って読んでいると分からなかった小さな気づきが、聴くことによって分かるようになった」という体験をしたからだ。それは第一列王記19章の音声を流した時だった。

 19章は、預言者エリヤが異教を信奉する王妃とその一味に狙われて逃げた時「主よ、もう十分です。私の命をお取りください。私は父祖に勝る者ではありません」と言って疲れ果てて寝込んでしまうところから始まる。この箇所を初めて読んだのは前の大学時代、KGKの祈り会でGA(Graduate Assistant)のSさんが私の大学に来て短いお話をしてくれた時だった。

 19章は、エリヤがこの章での主との対話を通して、霊肉ともに再び生きる力を得て、また動き出す、というストーリーが描かれている。それによれば、主は嵐の中にも、風の中にも地震の中にも火の中にもおられなかった。ただ静かにささやくかすかな声の中にいたと書いてある。この箇所は喧騒に満ちた現代社会で疲れ果ててしまいがちな私たちには有用なメッセージが書かれているとSさんがおっしゃっていた。

 なるほど、とその時の私は思った。だけど音声を聴いて、私はちゃんと分かっていなかったような気がした。神がどのように私たちを立ち直らせようとしておられるか、どのように私たちを励まそうとしてくれるか。静まるというのはどういうことなのか。音声を聴いた時のあの、目が開かれたような感覚は、おそらく、疲れ果ててしまったエリヤの神への訴えは私たちのものでもあるのだという気づきだったと思う。疲れ果てたエリヤの訴えはどこかで他人事のように捉えていたように思う。他人事では決して無いのに。

 

 聖書をよく読み込んでいるクリスチャンにとっても、聖書を「聴くこと」によって新しい気持ちで聖書が読めるコンテンツが満載だ。新しい気づきなどもあるだろう。もちろん聖書に馴染みがない人々にも無料ではあまりにもったいないツールだと思った。だから余計に資金源が気になるところではある。

 

《やや考え込むポイント》

 収録された声には好き嫌いが分かれるところがあるだろうと感じた。例えば私は、ルカ福音書の御使いの声が仰々しすぎる感が否めなかった。救い主が生まれたことを伝えるその光景は畏敬に満ちた雰囲気があるであろう事は当然だが、それをあまりに勿体ぶって仰々しくしてしまうと、滑稽にすら映る。ちなみに、話が脱線して恐縮だが、礼拝の司会者でやたら仰々しい祈りをする人がいるが(しかもプロテスタントの祈りなのになぜか原稿を見ている!それに気づいた時はショックだった)、あれも常々耳障りに感じていた。祈りというのは心の中の想いを注ぎ出して神に訴えるものなのではないか。司会者の祈りは、決して美辞麗句を振りかざすためのスピーチなどではない。

 

 話を戻そう。更に欲を言えば出エジプト記15章のモーセの歌も、喜ばしい雰囲気があまり感じられなかった。もしかしたら、これからの荒れ野の40年と呼ばれるイスラエル民族のさすらいの旅路の暗示としての演出なのかもしれないが…

 いずれにせよ、声にはある程度の好みは分かれるだろう。神の声が男性なのにも批判(この一連の批判はなかなか興味深かった。神が男性か女性かなんて誰にも分からないのだから。性を超えた存在だという理解の方が近いかもしれない)があるようなので、万人ウケする演技も声もなかなか無いだろうし、芸術全般にも言える事だろう。

 

鶴見辰吾さんのインタビュー動画》

 鶴見さんのインタビュー動画をYouTubeで拝見した。彼が収録中に朗読をしているその様子がとても印象的だった。最も感激したのは、彼がインタビュー中に言っていた次の言葉だった。

 

「(聖書を)読んでいてダビデが『主よ、神よ』と常に神に訴えているんですよね。それを心に込めて読んでいると、それを通じて僕もお祈りしているのと同じような体験になるので…もう何時間もかけてお祈りし終わってスタジオを出るような感覚なので…これが終わった後っていうのは、心が穏やかになっているんです」

 

 おそらくクリスチャンではないだろう人からこのような言葉が出るとは思わなかった。聖書の中の、ダビデの祈りが、鶴見さんも含めた、私たちの祈りになる。彼はそれを体験したのだろう。クリスチャンであろうとなかろうと、みな人間だし、(彼もインタビュー中言っていたが)人間はとことん弱い存在なのだ。自分を超えた存在に何かしらの想いを聞いてもらいたい、ぶつけたい。人間の中にあるそういった無意識的な意識が、読む側にも聴く側にも、よりリアルさをもって訴えてくるような気がした。

 

 そして彼は「このアプリを体験する皆さんも、声に出して読んでみたらいいのではないか」と言ってもいる。確かに聴くだけではなく、自分でも読んでみることで聖書のドラマをより深く体験できるだろうと思う。

 

 

 そして最後にひとこと。

 アプリの配信元がカルトとの関係が疑われたりしている。私には本当のことは分からない。だが私はこれを大いに利用してやろうと思っている。

「一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」

‭‭フィリピの信徒への手紙‬ ‭1:16-18‬ ‭新共同訳‬‬